別冊
ぼんのう
〜 第四回 〜
求愛の行為として
もうひとつのやりたかったこと
この【別冊ぼんのう】では自分の曲作りのテーマとして、2月に「自分のことを語る」、3月には「社会の問題」というような事を取り上げて書いてみた。
中学生の頃、曲を書き始めるにあたって「こんな事を歌にして歌いたい」と思っていたテーマとしての話だ。
結局、今現在の自分の曲の曲の書き方が「1曲の中に様々な要素を混在させる」といったようなものになっているので、乱暴な言い方をしてしまえば「どの曲も内容に関しては抽象化されるようになってきてますよ」ということではあった。まぁ、そのことに関してはまたいずれこのシリーズの中で書こうかと思う。
その前に、もう一つの中学生が思い描いた「こういう歌を歌いたい」について書いておこうかと思う。これも結末的には「いろんなものを混ぜ合わせるようになった」っていうことではあるけれど。
それが『求愛の歌』というものである。俗に言う「ラブソング」ってことになるかな?
普遍的な「愛」というのではなく、恋愛感情を歌った歌。それも失恋や別れの、あるいは片思いの辛さではなく「求愛行為」としてのラブソングといえばいいだろうか。単純に言えば「僕は君が好きなんです」という曲だ。
よく例えとして使われているけど、鳥類に顕著な、綺麗な羽を持っていてそれを拡げてアピールするとか、ダンスを舞ってみせるとか、キレイな囀りを聞かせるような「相手の気を引くため」であるとか、あるいはカップルになったもの同士でお互いの気持ちを伝え合うような行為としての歌というのかな?
それは、単純に自分がいろんな人の曲を聴き漁る中で、そうした求愛の歌が好きだったからである。情熱的で荒々しいものもあれば、やさしく美しい言葉や旋律のものもあるし、ファンキーなものもある。
例えば、僕が自分で曲を作りたいと思うきっかけとなったジョン・レノンの『Oh Yoko』なんていうのは、自分の奧さんに向けたラブソングである。サビは奧さんの名前を高らかに歌い上げている。にもかかわらず、その歌を聴いた自分は、そこに当時好きだった女の声の気持ちを重ねて聴いていたのだ。単純に「あぁ、ジョンは奥さんが好きなんだな」って事を発表してるというところで終わっていたら、そういうことにはならない訳で、僕はそこに音楽の素敵さをひとつ発見したのである。
加えて、先ほどの鳥の羽やダンスではないが、「これで好きな子への気持ちを歌ってみせたりしたら、あの子の(もしくはそれ以外の不特定多数の女の子の)気をひけるんじゃないのか」という企みがあったのも確か。それまで学校の勉強やスポーツといったものに秀でたものがなかった自分も、コレなら「オレもかっこいいんだぜ」ってアピールができるかもしれないと思っていた気がする。
その割に、その当時作った曲をお目当の子に聴かせるなんて恥ずかしくてできなかったけど(笑)
単純だけど簡単な話ではない
思春期の入り口に差し掛かった当時の自分としては、前回、前々回で話題にしたテーマよりも、このラブソングというのがもしかしたら一番リアリティのあるテーマだったかもしれない。
しかし、ただ「君が好きだ」「君が可愛い」「帰り道で話がしたい」みたいな事だけ歌っても、一曲分の中身が埋まらない。
第一、そういう気持ちを喚いてみたりしたところで、相手の気は引けないのである。
鳥を見習って、歌の中で美しい羽や優雅なダンスとなるようなものを伝えなければならない。鳥だって発情の勢いに任せて泥だらけの羽をバサバサと拡げてみせたところで、相手は逃げていくだけなのだ。
歌詞で言えば、表現のバリエーションや語彙、曲で言えばメロディーの美しさや、ノリの良さなどだろうか。歌を総合的に見ればキャッチーさというのも大事な要素になるかもしれない。
曲を作り始めたばかりの者にとっては、もう何が何だか分からないのだ。
別に技術力を高めればいいとは今だに思わないのだが、なにしろ自分が気持ちの中に持っているものが歌を作ってみると何も表せられていない気がしてしまうのである。自分自身にさえ伝わらない。
「君が好きでもっと一緒にいたいんです。君も僕も好きになってほしい」という事をそのまま歌ってもそれが「君が好きでもっと一緒にいたいんです。君も僕も好きになってほしい」という気持ちの中にあるものを伝えることにはならないんだなと。
要するに、思い込みだけで作っても、頭で考えを巡らすだけでも納得できる曲は作れないという事を、多分僕はラブソングを作っていく作業の中で実感していったのだと思う。
格好をつけていうなら「表現とはなにか」という事を意識することになってしまったのだ。
おそらく、自分を語る歌や社会に異議申し立てするような歌だけを目指していたら、自分はここの部分に無自覚に、なんとなく自己満足してその時だけ気分がいいような歌を書き続けてたかもしれない。そうであれば、もうちょっと早い時期に曲作りに興味をなくしていた気がする。
当時はそんな事は考えてなかったし、あくまでも今思えばという事だけれど、当時の「女の子の気を引きたい、好きな子に振り向いてもらいたい」という気持ちというのは、要するに「自分以外の誰かに自分を受け入れてもらいたい。知ってもらいたい。それもできれば多くの人に」という事で、僕は曲を作って歌う事でそれをやろうとしていたし、いまでもそういうことなんだろう。
ここが話がちょっと面倒くさくなるところで、単純に誰かに気に入られたい、多くの人にウケたいって事であれば、心にもない事を歌詞にして好きでもないが人気のある曲調を模倣すれば良いのかもしれないが、「自分の中にあるものを受け入れてほしい」ということになるとその受け入れてほしいものを気に入ってもらえる形にする必要があり、ウケけなければ明らかに失敗なのだがウケればそれでいいというものでもないという、よく分からない状況が続いて今日に至っているわけだ。
とは言っても最初は模倣から
自分が曲作りを始めてから一番行き詰まった時期というのは、思えば曲作りを始めたばかりの頃だったかもしれない。
要するに「自分のオリジナルのもの」として成立しているものがないのだ。それなりに気持ちを描いたものを作ったつもりになっても、そこに自分の中にある「何か」が込められているようには思えないし、そもそも自分の中にそれだけの経験も知見もないのだからそれはそうだ。
そして、当初は自分が気に入った曲を真似てみても技量も伴ってないので真似にすらなっていないという状況。行き詰まった時に頼りにできる手持ちの武器が何もない状況だったのだ。
そこで一つの指針となったのが「好きな子に自分の気持ちを伝えて気に入ってもらえるような曲を書く」というものである。これが僕の曲作りにおける、最初の「作戦」と言ってもいい(笑)。
当初の自分が好きな曲を真似るというところを「好きな子が気に入っているアーティストの曲調を真似る」に応用してみたのだ。コレはその子と話を合わせるために聴いてみたら自分も好きになってしまった(挙句、僕の聴き方がマニアックなために、結局話は合わなかったけど)ので、特になんの抵抗もなかった。
それが高校2年の時だったかな?
歌詞はまぁ、他愛なさすぎて赤面モノではあるんだが、今聴き返すと真似しきれないところをどうにかしようとしている形跡が本人にはよく分かるので、そこら辺から自分独自の節回しみたいなものが芽生えてきたんだなと分かる。
少し話はそれるが、自分の持論として、誰かの曲を真似てみようと思って書いていてもどうしてもその第三者の曲の通りにはならずにポロっと出てしまう「自分」の部分があって、それこそが「オリジナリティ」なのではないかと思っているのだが、この高校2年の時点ではまだそこまで行っていない。ただ、そのうまくいかない部分をどうにかしたくていろんな曲を聴き漁ったり、他の作品の要素を組み合わせてみたり、その間に自分の経験も増えて、そして歌詞にしても「もっとしっくりくるものを」という事を求めつつ、本でも漫画でもドラマや映画でも頭の片隅では常に「何か使える言い回しはないか」と思いながら楽しんでいたのが、自分の語彙や表現パターンの肥やしになっていたんだろうと思う。
何れにしても、もともと人の曲のコピーやカバーに興味がなく「自分の歌を作りたい」という勢いで始めてしまった自分にとっては、こうした「模倣しながら曲を書く」という作業の中で基本的な曲の構造などを身につけることになっていったようだ。
20代の前半くらいまでは、そんな感じで求愛の歌も書いていた。
歌っている中に登場する「君」というのは大抵は当時好きだったか付き合ってた女性であったと思う。徐々にその子をモデルにしながら、現実とはちょっと違う描き方をするようになっていくけれども。
そして、模倣もその過程の中で「真似る」から、そういう意図ではなく自然に影響されたものが自分のフィルターを通過して出てくるようになる。あるいは、自分の表現したいもののために「取り入れる」という形に変わってくる。
求愛の歌は試金石
さて、20代半ば、厳密に言えば1990年以降、一旦音楽を辞めようと思った後で結局やめきれずに曲作りを再開してからは、思うところがあり求愛の歌に限らず曲作りへのアプローチが多少変化して現在に至っている。
もちろんそれは如実な変化ではないのだが、とにかく何か自分にとって新しい試みをするにあたって、ひとまず「求愛」がテーマと受け取れるような曲を書くというところから試みている気がするのだ。まぁ、思い返せばという話だけど。
一つの心象があってそれを表現するために、求愛を核として別な要素も混ぜ込んでみるとか、あるいは何か音楽的なアイディアや歌詞の描き方を試すのに恋愛をモチーフにしてみるとか。
もちろん、どれも自分の中の「何か」を曲という形にして表に現すためのものなんだが、例えば自分が幼い頃聴いていたような歌謡曲風の曲を書いてみるとか、あるいはもうすこし詩的な表現にトライしてみたい時、ちょっとした人間の精神に関しての考察を(本当にちょっとしたことなんだが)隠れたテーマとして採用しようなどと思った時に、まず手始めに求愛をモチーフにして作ってみるという傾向があるようだ。
なんでも二元論的に物事を分割して考えるというのはあまり趣味ではないし、こういう創作物の話になると返ってわかりにくいことになってしまう気もするので、一例として映画の話を。
ジェームス・キャメロン監督の大ヒット作に『タイタニック』という映画がある。
きっとあの映画に感動したとか、大好きだという方の殆どは、主人公の男女の愛の物語として鑑賞していると思うし、確かにそのように作られている。
で、あくまでも僕が観て思ったことではあるが、多分ジェームス・キャメロンがあの作品でやりたかった事は、巨大な豪華客船が沈没していく状況の再現なんだと思う。
そのため、主役は船底の安い客室に紛れ込んだ貧しい移民で、その恋愛の相手は裕福層の令嬢なんだろう。その二人が船内を動き回る事で、船の中の隅々まで見せることができるし、乗っている様々な社会的階層の人々の姿を紹介する理由ができる。
そして、沈没している最中にすったもんだして船内を駆け回る動きがあるので、船内のあらゆる場所をカメラが捉える必要があるように作られている。
いわば主役の二人は沈没する船の様子を見せるための「狂言回し」でしかないのだが、多くの人に受け入れられる形をとるためにラブストーリーに仕立てているんだろう。
少なくとも、感動のラブストーリーを作るために舞台を沈みゆくタイタニック号にした訳ではないはずだ。
同じ監督の『アバター』でも、ストーリーの主軸に「主人公と異星人の間に愛が芽生えて成就する」というものが設けられているが、あの話自体で表現したいテーマはもっと他の部分にあるし、技術的な事で全編CGで細作して3Dで鑑賞するにふさわしい映像を作るトライというのもあるだろう。
そこまで大袈裟ではなくとも、監督や製作者にある一つのシーンのアイディアがあって(曲でいうと例えば、サビのワンフレーズでこの歌詞を使いたいとか)、そのシーンが必要で説得力を持った作品にするためにラブストーリーを作るという事もあると思う。作者の伝えたいのは、そのシーンに込められた「何か」であって、恋愛云々ではないのだ。
自分の求愛の歌は、次第にそのようなものになって来た。その中で取り上げられる恋愛が実体験なのか想像なのかは自分にとっては特に公表する必要も感じないし、実体験も創作も第三者の話もごちゃ混ぜになっているのが大抵である。
ただし、くどいようだが(ここが大事なので)、少なくとも人前で歌っている曲に関してはうまく行ったかどうかは別として、自分の中にある「何か」を込めているのは間違いない。
恋愛に関しての曲だけではないが、聴いていただいた方の中それぞれの解釈で、できれば何かを感じ取ってもらえれば、ご自身の歌のように感じながら聴いてもらえるといいなと思って書いているのです。
ちょうど少年時代の僕が、どこかの国の会った事もない人が自分の奥さんへの求愛を告げているのを聴いて、僕自身が恋している女の子のことを思い浮かべたように。
単純なラブソングを
そうした形で諸々の変遷がありながら「求愛の歌」を書いて来て、これまで作り手として確かな手応えを感じた曲というのもあるのだが、もう10年以上前の話である。自分のエポックメイキングな曲になったなと思う。事実だけではないがその年齢になるまでは書けなかったような経験も踏まえているし、詩的でもありポップソングとしてちゃんとしたラブソングが書けたと思っている。
求愛の歌に関しては作曲の真似事を始めてから約30年ちょっとでようやくそんな曲が書けたということになる。そうなると次のマイルストーンは今から20年後なのだろうか?
なんというか、最初の頃は単純に「君が好きだ」っていう気持ちを表そうとして、それしかできない上に、まともな曲として出来上がったものでもなかったのだが、いろいろやっているうちに今度は単純なラブソングを書くというのが一番難しいものになってしまっている気がする。
世の中の事などどうでもよくて(とすら歌わずに)、ただその人に向けて求愛しているような、それが楽しく、あるいは切なく響くような歌。
今ぱっと思い浮かぶのは、Van Morrisonの『CrazyLove』であったりビートルスの『All My Loving』であったり。
単純明快で、親しみやすくて、他愛もなくて誰もが自分の気持ちを投影できるようなただのラブソングを書くことは目標の一つである。
何にせよシンプルであるというのが一番難しいものだとは思うが、そういう観点から見ると、これだけ曲を書いたり歌ったりしてるのに、未だ少年の頃の憧れには届いていないのかもしれない。それがラブソングかどうかは置いておいて、意外と大きな夢だったんだなということに改めて気がついた。