別冊

ぼんのう

〜 第三回 〜

愛と平和と政治と社会

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多分1985年頃

 

ジョン・レノン生まれのU2育ち

 

「音楽に政治を持ち込むな」

このセリフを数年前によく見聞きした。

ある音楽フェスだったかなんだったかに、原発問題だったかなんだったか(記憶があやふやだ)の意見交換の場を設けたというようなところから出てきた言葉だったと思う。

まぁ、それが本当にそこに参加してた人たちの意見なのか、なんらかの意図を持った作為的な記事だったのかは知らないけれど、「せっかく音楽を楽しみたかったのに云々」とか「音楽の役目はそういうことじゃない云々」とかという意見がありましたと。そしてそれがさも大多数の、もしくは正しいものの見方だとするようなテキストの書き方であった。

 

ま、今の日本の中では、音楽表現というのは娯楽に特化したものであるという認識をされているのかもしれないなという気もする。

「ミュージシャンや芸能人は政治的な発言をすべきではない」というのもよく聞く意見だ。

 

ここで、欧米の音楽人や俳優などがどうしているだとか、それを受け取る側がどう思っているのかなどを細かに述べていくと、全然ここで話題にしたいこと(それは自分の個人的な曲作りに関する話なので)から逸脱していくので割愛する。

 

この件に関して自分の意見を言うなら

「音楽人だろうとなんだろうと、作品のテーマに政治的、社会的な事を取り上げたり発言などで自分の主義主張を述べるのは当然の事だし、逆にそういうテーマや発言を一切行わずにいわゆるエンターテインメントとして完結する作品や立場を取るのもその人の考えとして尊重したい」

ということでしかない。

 

そして、自分の好みとして言えば

「各々の視点で政治や社会の関心ごとを取り上げて、各々の切り口で作品や活動に反映させる部分が垣間見える」ものを好む傾向にある。

 

これはもう、音楽を自分でも作りたいと思うきっかけや、そうこうしながら聴いてきたアーティストの姿勢がそういうものだったから、自分にとってはむしろそれが自然な行為のように思えるから。

「ジョン・レノン生まれ、U2育ち」で音楽を経験している者にとっては、そうしたアレコレと作品が繋がってないことの方が奇妙に思えるくらいだ。

 

もちろん「人を楽しませること、ファンタジーを提供すること」を矜持として、具体的な政治問題や社会問題を排除している人たちの中にも素晴らしい人たちは大勢いるし、その作品を楽しむ。「政治性がないからダメだ」とは思わない。

それに、直接的な言動や作品への反映はなくても、そういうことがに滲み出る人というのもいらっしゃる。

 

僕は割と、50~60年代のソウルミュージックが好きだったりするのだが、あの他愛もなく「オマエが好きでたまらない」みたいな歌の数々になぜ心惹かれ、何故どんなに近づこうとしてもあの味を出せないことに苦労するかを考えてみると、彼らの歌う愛やセックスや踊ったり叫んだりする心情の背景、そして彼らがそういう娯楽作品を生み出していく背景に、差別やアイデンティティーの問題を抱えた社会での生活というものがあるからだろうと考えている。

そこから生まれた娯楽が、政治や社会問題に触れないものであっても、そこに社会の問題を嫌すぎるほど背負って生きている人たちの息遣いを感じるものなんだろうと…。

 

 

 

訴えるのではなく忍ばせる

 

さて、自分が曲を書き始めた頃、もちろんジョン・レノンの影響もあって、自分がどんな事を歌いたいのかという部分では、先月書いた「自分自身の事を歌う」の他に「愛と平和を訴える」というものもあった。

おそらくは、ジョン・レノンもそうなんだが、他にも多くの興味を惹かれたアーティストに共通な「反体制的」な佇まいというのかな? そうしたものを単純に「かっこいい」と思ったのだと思う。もうちょっとだけ中身のある言い方をすると、世の中に対して「これはおかしいんじゃないのか?」「間違ってるんじゃないのか?」と指摘する内容にも子供ながらに合点が行ったし、「だからもっとこうしようぜ」的な姿勢も好きであった。

正直、自分がそうした人たちの音楽や姿勢に触れて現在のような自分になったのか、自分が元からそうした性質を持っていたから彼らに惹かれてしまったのかはわからない。

 

とにかく、そういう部分からも音楽を聴き漁って、例えば反戦歌一つとっても、大雑把にまとめてしまえば露骨に「戦争反対」とか「人種差別はダメだ」と訴える歌よりも「戦争や飢えがなく、みんなが平和に暮らす世界を想像してごらん」とか「愛や平和のなにが滑稽なんだい?」というような表現の仕方の方を自分が好んでいることに気がついていき、やがては自覚になっていく。

 

例外的なのは、忌野清志郎などのストレートで攻撃的な政治批判の歌というのはあるのだが、あれは発信する側によほどの言葉の力やパフォーマンスの力があってのことだろうなと思う。なんというか「気合が違う」という感じがする。

 

あとはまぁ、桑田佳祐などのように政治的な事を「ネタ」にしてちょっと茶化したような風情(のフリ?)をした曲も好きである。 落語に登場する長屋の人物たちのバカな会話がちょっとした風刺になっているような。

 

とにかく、そうした自分の好みの解析をしてみると、そしてこれは多分自分の性分なんだと思うけれど、何事もどちらかというと特定のことにフォーカスするよりは、そこをきっかけにして観念的に物事を解釈していく癖も手伝って、自分が書こうとすると政治的、社会的な事柄というのは、そこで何かを訴えるというよりも「曲の中に忍ばせる」ということの方が多くなってきたなと思う。

 

これは、もう何度も登場するが、佐野元春の書き方の影響が大きいと思う。

全てではないけれど、彼の書くほとんどのプロテストソングは具体的な物事に言及すると言うよりも、利き手側に曲の中から自分がその時点で感じている出来事を連想させるというタイプのものだと思う。

そして、単純に音楽的にかっこいい(コレも話が長くなるので割愛するが、要するに「腰を振って踊りながら自分を取り巻く社会に対峙する」みたいな)。

 

あるいは、憧れのソウルシンガーのように、社会や政治の問題を背景にして、たわいもない歌に滲ませていく方法をとりたいのかもなと、今コレを書きながらふと思った。

 

 

 

形から入り、形は無くなっていく

 

さて、自分が子供の頃に音楽をやり始めて、憧れた人たちのように自分も世の中に抗議する歌を作りたいと思ったはいいが、先月の「自分語り」に関して書いたのと同じように、ここでもよくわかっていないことに対して、書きようがない状況が続く。

 

なので、最初は形から入ることになる。歌えるのはせいぜい「戦争反対」という主張くらいだ。それはロジックがあっての主張というよりは、感情的な反応でしかないものだ。

これはもう、平和な世の中で恵まれた環境で育ってしまっているので、結局は通り一遍の道徳の教科書みたいな思想しか持っておらず(コレが思想と言えるなら)、その戦争にしても非常に漠然とした印象しか持っていなかったからだ。

 

そこで「戦争が嫌で、友達と戦場から逃げ出す兵士」という設定を思いついた。たまたまテレビでやっていたABBAのライブで(確か『悲しきフェルナンド』という曲だと思う)、おそらく今は死んでしまったのであろう戦友に語りかけるというような形で歌われていた曲があって、その設定を拝借して物語を想定して、そこに当時の自分の戦争に対する(今思うと稚拙な)意見を盛り込んでいる。

まぁ、子供ながらに戦争はダメだと本気で思ってはいたし、プロットは借り物だけど、多分、当時の自分の技能でできる限りのことはやってたんだろうなとは思う。

 

ただ、そこから数年間は、社会問題だの戦争がどうしただのというテーマは取り上げなくなった。言えることが何もないのと同時に、おそらくはもうちょっと「曲を作る」といことそのものに関心が向かったからだろうと思う。

あとは、若気のいたりというか「政治的な事や社会情勢に関心を持つなんてダサい」という時期もあったのは確か。

 

なので、自分の手に余る大きなこと(この感じ方は後年ちょっと変化した)ではなくて、身の回りで見聞きする些細なことや感じた事を題材にする期間が数年あったし、今も基本はソレである。今はそこを社会の大きな出来事とつなげていく視点というのが自分の傾向としてあるのだが、これは曲作りを離れて、自分の生活全般に於いてもそういう物事の捉え方をしている。

曲を作りたくてそういう感覚になったのか、そういう感覚だから今みたいな曲作りになったのかはわからないけれど。

 

話を戻そう。

若い頃に一番社会問題っていうところに近いのは、大学生の頃にちょうど情報社会の先駆けのようなことが起きたり、マスコミの煽り方が嫌だなと思うようになったりということで書いた曲があったのがソレだろう。

あとは、都度の世の中の事件を直接的にだが、ちょうど漫才のネタのように茶化して取り上げたものはあったけど、そういう曲は全部かすかな記憶しか残ってない。時間が経てば歌ってても面白みを感じられないからだろうな。

 

直接何か具体的な出来事を題材とするのは、20代の後半くらいから。

湾岸戦争の時がそうだ。その少し前にベルリンの壁崩壊があり、そのへんからまた「戦争」とか「社会情勢」みたいなものに関心が向き始めたのだと思う。付け加えると、自分の生活の細々した出来事や問題点と世の動きというか、空気がリンクしているのだと感じ始めたせいもあるだろう。

 

なので、このへんから書く曲は、そうした世の中の動きの中にいる誰かのこと(決して自分自身に特定してるとは限らない)という書き方をしていたりする。

 

ここから、周期的に自分の生活と世の中の大きな事件がリンクして、自分の考えや生活に変化が生じるということが起きる。多分、意識してるしてないに関わらず、ある程度の年齢以降の人ならばそういうものだと思うのだけれど。

 

湾岸戦争、9.11、東日本大震災

大きく区切ればこの3点。

 

その都度、自分なりに関連した曲を書いたつもりではいるけれど、振り返るとだからと言ってあまり主義主張を前面に出したものではないなという印象がある。

 

なんというか、もうひと段階のひねくれた視点がはいってしまうか、もしくは先述したように観念的な捉え方に変わってしまうのだ。

例えば、東日本大震災の後には、あまりにもいろんな想いや感情が去来したので、何曲も書いているのだが(それは今でも続いている。曲作りというだけでなく、自分の感覚の中に「3.11以前と以後」というわけ方もできるくらいに)、最初に書いた曲が『座右の銘』という、お気楽なロックンロールであったりという具合だ。

 

これは、多分自分が当事者ではないから、その空気の影響を感じる暮らしの中で取り上げるしかないからだろうということと、もともと自分に、直裁的に何かの具体的な事をそのまま書く素養がないのだろうと思っている。

一旦思考なのか感情の中で抽象化して、それを他の抽象化されたものと混ぜ合わせた上で掬い出して曲にするという性質なんだろうなと。

 

こう書くと、難しくてたいそうな事をやっているような印象になるかもしれないけれど、実際に出来上がるものは別にどうということはないものだ(笑)。ただ、どんなに拙い曲を書く人だって、書いている時の過程を文章化すると、何らかのこうした内部活動があるものなのです。思考であれ感情であれ。

 

具体的なフォーカスの仕方をするとなると、北海道がブラックアウトした際に書いた『笑うしかない』やコロナ禍で書いた『Tier Lie,Would Guy』のように「おフザケ」というか「状況を嗤う」とうことをやるものになってしまうし、そちらの方が自分ではしっくりくる。

 

最初は、自分で社会問題に対する主義主張を歌う曲を書きたいと思ったのも半分あって、色々な事を考えたり調べたりしているうちに、世の中は「単純に戦争反対とか言える構造ではないかもな」とか思うに至るようになったのも一因であるが、もう自分の書く曲に関しては「これはこの事件に関してのこういう事に対する考えを形にしました」と言えるような書き方にはならないだろうなと思う。

これは先月書いた「自分語りの曲」でも同じような事を言っていたはずだ。つまり、何によらず自分の曲の歌詞というのは、「一旦観念化、抽象化したところから書き始める」という傾向なんだと思う。

意図的にやっているわけではない。客観的に見るとそういう事に気づくという事だ。それで、なにか特定の事柄を歌った歌と大きな違いが生まれるわけではなくて、単なる作るときの傾向としての話。

 

 

​最初に戻って

 

さて、話を最初に戻して、音楽家や俳優などエンターテインメントに関わる者は「政治や社会の問題を取り上げてはいけない」のかどうか、というところだが、さっきまで書いてたように、自分は今現在それを露骨に歌うことはないのだが、SNSなどではそれに類する発言をしているし(まぁ、自分くらいの認知度では誰も文句は言わないし)、一応は社会活動にコミットするような企画にも参加したりしている。「売名行為」という批判を受けたとしても、それで10年近くやっていながら一向に名前は売れてないのだから、むしろ多少は売れてもいいんじゃないかとすら思っている(笑)。

関心を持っていれば、どんな形であれ自ずとそれが作品に反映されてしまうのが、紛いなりにも表現活動的な事をしている者である以上は自然な事だろうと思う。

 

なので、自分の曲の作り方も踏まえて、僕自身は現在、この問題に対しては「どうするべきなんて意識しないでおこう」と思っている。

そう思ったら、「音楽は社会問題に対してどうこう」という話は問題ですらない。

 

「今日は晴れていていい気持ち」も「君が好きでたまらない」も「あの首相のやり方はおかしんじゃないのか」も「原発の是非を問う」も全部同列に扱って、自分の中にあるものを描くのが当たり前と受け取られる世の中であればいいなと思う。

 

 

だから、気合い入れて社会批判や反戦を訴えるための歌を書こうとは思わないし、頑なに自分の書くものは日常とは離れた娯楽を提供しなければとも思わない。今のところはね。

 

願わくば、なんとかうまい具合に、そのエンターテインメントの中に社会の問題を取り上げられないものかと、もうちょっと言い方を変えると、政治問題、社会問題、世界情勢などをエンターテインメントの中に盛り込んで見せたり聴かせたりってことが音楽の中でも広まっていけばいいなと思っている。

そうすれば、音楽を楽しむ事をきっかけにしてそうした多くの問題について(腰を振りながら)関心を持つ人たちも増えるんじゃないのかなと。例えば、自分がそうであったように。

 

「音楽で世界を変えることはできない」とか「音楽と政治は切り離すべき」というのは、きっと昔から言われているだろうけれど、音楽が世界を変えたわけではないかもしれないが、何かが変わるその現場に音楽が存在していたり、大きな要因であった事例もたくさんあるし、何かを変えた人たちの中に音楽が与えた影響も少なくないだろうし、逆に政治家やなんかが音楽やアーティストを利用することだってある。

 

音楽に限らず、表現とか娯楽とかいうものと社会問題は最初から別々のものではないというのが僕の考え。

 

なにせ、僕自身がいろんな音楽を聴いたり、自分で曲を書こうとしたところから、社会問題に関心を持ってしまったのだ。その過程で、子供の頃単純に「戦争反対」「政治家はずるい」とか言っていたのが、「なぜそうなったのか?」っていうところから考えるようになったのである。

 

前回の「自分語り」もそうであるが、僕の曲作りは、自分が取り上げたいと思った事柄の内容についての知識も経験も何も持っていないと気づいたところから始まる。ついでに言えば、確たる主張もなかった。まぁ何も持っていないことに主義主張なんてあるわけがない。そこがスタートだったのです。

 

そこで、音楽の事を知るためや曲作りのために必要な事を身に着ける過程で(例えば「ロックンロールはどうやって生まれたか」とか)、宗教、人種問題、認知科学、文化人類学、量子論、哲学、政治問題(全部興味の赴くままに見聞きして繋げ合わせてるので、細かな区切り方や名称はよくわかっていない)とかに触れるようになったので、自分の中では全てが音楽や曲作りへの関心から始まった事である以上、そこに線引きをして考えるという姿勢はまったくない。

 

そして今日もそうした興味を漁った上でそうした事を背景にして、結局は「君が好きでたまらない」みたいな愚にもつかない歌を書くのです(笑)。その事で曲に深みが増すわけでも、なんらかの差異が生まれるわけでもない。たんに自分がそういう傾向を持って曲をかいているというだけの話なんだけどね。