別冊

ぼんのう

〜 第九回 〜
ひとつの事の幾多の側面

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同じテーマで作り直す

 

長年やっていると、歌詞の内容にしろ曲の印象にしろ、同じようなものというか「焼き直し」的な作品を作ることもしばしばある。無自覚な場合もあれば、意図的にそうすることも。

 

曲を作り始めた頃というのは、歌詞に取り上げる題材も限られたものであったし、メロディーも似たり寄ったりな傾向があり(「傾向があった」というよりは「引き出しがなかった」と言うべきかも)、書き上げてから「あ~、前に作ったのと同じだなこりゃ」というものをしょっちゅう書いていたように思う。

 

それが作る要領のようなものがわかってきたり、歌詞の書き方、曲の作り方や構成の仕方なども多少身についた段階では、以前に作った曲でうまく行ってないと感じた部分を、今の能力で作り直してみようかという事を試してみたりもするようになった。もしくは、同じ題材でも年齢を重ねると自分の感じ方や捉え方も変わるし、別な側面が見えてきたりもするから、それでもう一曲書いてみようみたいなことも起きる。

それは歌詞の内容もだが、曲調でもそうだ。以前書いた失恋風の曲を、その曲調で新しい知識を身につけたので、今度はそれを使って人生観のようなものを取り上げた内容にして書いてみるとか。

 

「同じような事をやって、それを深化させたり技術的に向上させる」という事を作家がやっているんだ(特に自作自演の作家の場合は顕著だと思う)ということに気がついたのは、さだまさしが最初だった気がする。

彼の初期のアルバム4作くらいは、コミカルな内容のもの、弾き語りに近い演奏に装飾音を配置したいわゆる「フォーク調」の物悲しい展開のもの、ロック調のもの、当時流行りだった西海岸的なポップバラードやAORに近いもの。というようなタイプの曲が、どのアルバムにもほぼ同じ比率で収録されており、パターンを生み出していた。

サザンで言えば、実情はもっと複雑ではあるが、簡単にいうと『勝手にシンドバッド』の系譜と『いとしのエリー』の系譜というものがある。

余談ながら、歌詞の書き方でいうと「エロ」が前面に押し出されたものと「純情」がフィーチャーされたものがあって、この二つを単一のアーティストが発表し続けてどちらもバンドのイメージとして支持されているというのは、非常に稀有な事だと思う。

 

こうしたものを聴いて育ってきたので、「同じような内容の曲を書く」というのは、最初からさほど抵抗がなかった。まぁ、最初はそうやって書き直さなければ話にならない曲だったし「多様なバリエーションを持つ」という目標と同時に大事な事でもあった。

 

 

同じ曲を作り続ける

 

しかしながら、若い頃は同じメロディーを再度使ったり、同じ言葉や、視点は変わらないのに言葉だけ変えてもう一曲作るというような発想はなかったと思う。

というのは、巷のヒット曲などを聴いて(一曲ヒットしたら、もう1曲同じタイプの曲を出すと継続してヒットするという説があった)「毎回同じ歌じゃん」みたいな多少嫌悪感というか、1組のアーティストが一つのタイプに固定された曲しかないというのが好みではなかったのだ。だから、自分は色んな事やろうというのが前提としてあった。

 

そうした拘りがなくなったというか、そのヒットを狙って同じパターンを繰り返し提供するというのとはまた違う意味で、同じ曲調や同じ言葉を使って幾多の曲を書いても何かしらの説得力を持たせることができるんだとか、もしくは自分の何かの「追求」の形としてそういうものを持ってもいいんだというのに気付いたのが30代になってヴァン・モリソンを熱心に聴くようになってからだ。

 

それまでも聴いていなかった訳ではないのだが、30代になってから現在に至るまで、ヴァン・モリソンの音楽が一番自分にしっくりくるようになった。特に最初に彼の魅力にとりつかれてからしばらくの間、既発の作品を聴き漁り、その間に発表される新作を聴き込んで、自分が40代になるまでに気がついたのは「この人、同じ曲を何曲も書いてるんだな」という事だった。

以前の曲が新曲によってアップデートされたから、もう以前の曲は必要ないというのでも、古くなったというのでもない。そのどれもがいい曲であり、新しいアルバムが出るたびに、毎回同じ曲なのに毎回素晴らしいと思えるという。そして、以前の作品もまた聴きたくなるという現象が起きるのである。

 

もちろん、当人しかわからない、以前に作って納得いかなかった部分や新しく取り入れたいアイディアがあって作り直してみるという事はあるのだろう。それに、積み重ねた経験によってもその同じような曲にさらに深みや味わいが追加される側面もあるのだろうが、聴き手としては、そこに気がつきつつも「同じ曲を作り続ける力強さ」というものに惹かれているんじゃないかと気がついたのだ。

 

この影響はかなり大きいと思う。

ここで同じようなコード展開、同じようなメロディー、同じ言葉を使い回すということに、自分自身一切の躊躇がなくなった。それは第三者にはわからないのだろうが、自分の中にそうする必要があれば、その曲を作りたいという衝動があってそうなってしまう曲であれば、そこで「前と被っちゃうな」などと考えておかしな修正を図るよりは、自分の表現として正しいだろうし、伝わるものがあるのだろうし、仮に「同じ歌ばかりでつまらない」という評価しか得られないなら、それまでの話だ。と、思えるようになった。

 

言葉のチョイスも同じで、例えば自分がよく使う言葉に「静寂」や「祈り」「はしゃぐ」「憂う」などがあり(まだまだ無数にある)、「ひとりふらり」などの言葉遣いなども、何度も出てくるというのは意識していないにしろ、その語感も含めて自分の中では何らかの必要があって出てくる言葉なので、そのままにするようになった。

 

物事には様々な側面がある

 

言葉や曲調とはまた別に、歌詞の内容というか、歌うテーマみたいなもとして、例えば「求愛」というテーマでも、そこには例えば切ない面と喜びの側面があり、それぞれで曲を作ることができる。

というか、曲を書く時というのはどうしても、その時の自分の感情というか気分が反映されるので(特に恋愛でもないのに、胸の内にある哀しみを表現したくて「求愛」という題材にすることもあるし)、切ないなら、切ない求愛の歌になる。

しかし、そうして出来上がって、出来上がりには満足していてもどこかに「コレがオレの求愛の感情全てではないな」という気持ちになる。そこで今度は浮かれて陽気になったような気分の求愛を表現する曲を書いてみようかという事になる。

 

もしくは、「こうやって生きていこうぜ」みたいな事を歌うにしても、やはり血気盛んな場合と、のんびりと構えた場合、シリアスな感情もユーモラスな気分もある。現実主義的な側面もあれば、理想主義的な面だってある。その葛藤自体がその時の歌詞になりもする。

 

もっと単純な例を挙げれば、普通に生活していて、ジャンクフードは「体に良くない」という側面もあれば、「美味しいので食べると満足感が得られる」という面もある。「安あがりに腹を満たせる」という経済的な面もあれば、モノによっては「何が使われてるかわかったもんじゃない」という心配もある。

要するに「どの観点で見るか?」によって評価も印象も異なったものになる。

 

もちろん、そういう曲も作る事はできる。『ジャンクフードの良し悪し』みたいな。もしくは『物事には様々な側面がある』という歌でも良い。

 

でもそれだと、「幸福感」も「嫌悪感」も表現したことにはならないし、一曲の中にその全てを網羅するのはなかなか至難の技だ。

 

そこで自分の場合は、同じような情動で関連するような様々な事柄を歌詞の(というよりは歌詞を書くための背景として)中で紐付けたりする。表面上ジャンクフードの事を取り上げているけど、その実「嫌悪」という情動についての曲だというような…。

 

だから、同じ事柄を取り上げた曲でも、その曲によって視点を変えて異なる捉え方をしてみようという場合もある。前述した「切ない求愛」と「陽気な求愛」のように。

 

しかし、物事というのは矛盾も含め様々な要素の総体として在るというのが、自分の考え方だし、一人の人間でも一個の事象でも、その「矛盾を孕んで存在が成り立っている。矛盾する事柄が同時に並列にある」という事に惹かれるタチなので、そうした事を表現したいという気持ちも強く持っている。

 

例えば「月」というのに強い興味を持つのは、自分のそういう指向のせいなのかもしれないなと思うのだ。

 

 

月に寄せる情動

 

「月」が何かと言われれば、天文学的だったり物理学的な点から説明して「こういうものです」と説明するのは簡単だろう。

しかし、月を見て想起するものや、湧き上がる情動というのは矛盾に飛んでいて一人の人間の中にも多様なイメージが混在しているのではないかと思う。

そして、大抵の人は月を見るときに天文学や物理学の知識で説明できる物体について思い巡らせている訳ではないだろう。

 

自分自身が月を見上げたときに浮かぶイメージとして、狂気と同時に安らぎがあり、慈悲があると同時に無慈悲で、性的な欲情を含みながら清らかで、魔性を喚起させながら浄化されるような気持ちになる。これはその時々の自分の気持ちのありようで、その捉え方も変わってくる。

そもそも、「月の光」というものに見とれるとき、意識していないかもしれないが、それは周囲の「闇」とセットである。

 

音楽だけに限らず、様々な表現者が月に惹かれてきた理由は、そんなところにあるんではないかと思うのだ。

 

月に対するそうした感じ方を一曲で歌いたいと思っても、これはなかなかに難儀な作業で、だからいくつも「月」を題材にした曲を書き続けているし、月にまつわる歌をいくつも愛聴し続けているのだろう。

 

月について歌うというよりも、月がある背景での心情という事になるのだが、そうするとやはり、先ほども書いたように何か一個の情動を主体に書くことが多くなってしまう。これは経験上、ある意味そうせざるを得ないと思っているので、様々な側面を取り上げては書くというのは楽しい作業ではあるのだが。

 

ポール・サイモンのあまり知られてないが好きな曲に”Song About The Moon”というのがある。ソングライターに向けて「月の歌を書きたいならこうしなさい」というような指南をする曲なのだが、それは禅問答のような内容で、「月について書きたいなら、魂の歌を書け」とか「心の歌を歌いたいなら月についての歌を書け」なんていう、結局何をどう書けばいいのかわからないアドヴァイスで構成されている、彼らしいユーモアのある曲だ。

その曲の中に「あの娘は笑いすぎて涙がこぼれる」という一節がある。

うん、つまりそういうのが月について表現するって事なんだなと、説明にはなってないが納得できる自分がいる。

 

自分がこの歌を初めて聴いたのが20代の前半だったと思うのだが、その時から惹かれていたのはこの「明確には説明していないけど、どこかで納得できるような、でも掴みきれない魅力」という部分なんだろうと思う。

 

それから自分自身が月に魅力を感じている事を意識し始めるまでに少しブランクがあるのだが(そのきっかけは覚えていないが、多分、何かの弾みに月を見て惹きつけられたとか、そういう身も蓋もないきっかけだろう)、本格的に「月から感じるものをなんとか曲にしてみたい」とトライし始めたのは、90年になってからだ。以来、数多くの「月」を題材にした歌を書いている。

そして、そうした曲を考えている最中、いつも”Song About The Moon”を思い出している。

 

 

ひとつの事はどこまで分割できたり融合できるのか?

 

まぁ、ひとつの題材ということで「月」を例に挙げてみたのだが、それだけでも「月」に対する一つの側面からのアプローチだけでもまた、勢いのいいものから穏やかなものまで書き分けることができるし、そこには自分が年齢を重ねていくという時間の変化の中での何がしかも加味されたり、価値観を変えていくものもある。

 

そうしてみると「ひとつの事」の中にはいろんな捉え方が混在しているし、さらに追加されたり変化していく部分もあり、ひとつの曲に情動の観点からいくつもの事柄を混ぜ合わせていくなんていう作業をしていると、いくつもの「ひとつの事」が重なってまた別な「ひとつの事」になっていくという事にも気付かされる。

 

そう考えると、コード進行や曲調が同じもしくは似ている曲を次々に作るというのは、その音のイメージの中に含まれる様々な要素を都度書き起こしたり、変更や追加をしているとも言えるし、同じ言葉をいろんな曲調の中で使ったりするのは、無意識に自分の中にある様々な個別の事柄の中の共通項として存在しているからなのかもしれない。

 

そういう輪廻を繰り返しながら、その繰り返し自体がヴァン・モリソンのように人に訴える力になったり、あるいは少しずつ姿を変えながらより深くて多様なものになっていけばいいなと思う。

 

という考察を、同じような曲や同じ題材の曲が多い事の言い訳として書いてみた(笑)