別冊

ぼんのう

〜 第五回 〜
器を決めたら中身が現れる

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曲作りの作業工程は縦横無尽

 

2月、3月、4月と語ってきた曲作りの変遷だが、主に「歌詞のテーマ」といったものにそう形で書いてきた。なんというか、あらかじめ書きたい内容を念頭に置いて書くというような方法である。

 

だがもちろん、これは歌であるからして「曲の構造」とか「構成」と言ったことも大切であるし、それが歌詞の内容や言葉が持っているリズム感や語感ともうまくマッチしていなければならないし、この基本を踏まえて「あえて外す」という事も時には必要だったりする。

また自分が曲を書くにあたって、歌詞においては必ずしも「言いたい事」というのを重要視している訳ではない。ただ実際に歌う時に自分の中にある何がしかが込められてるものでなければ、単純に「歌いにくい」とか、感覚的には「手持ち無沙汰」な気分で歌うことになるのでそこには留意している。

 

だから、別段歌詞の内容を決めてから書く必要はない。

普段考えたり思っていないことでも、そこに「自分の表現からうまれたものだ」という感触があれば問題ないし、書き上げた歌詞によって自分の内面にあるものを認識したりする事もある。

 

何がしかの自覚された気持ちがあって、それを元にメロディーや歌詞を探していく事が通常だと思われるかもしれないが(自分は、最初の頃そう思っていた)、構成や構造を決めて、そこに歌いながら、自分にしっくりくる言葉やメロディー、歌い回しなどが現れてくる事もある。

 

例えば、誕生以来のブルースやロックンロールにある「3つのコードだけを使ってワンコーラス12小節」と言ったフォーマットに則って書くと決めて、そこからやっていくとか、内容ではなく「歌詞にこういうルールを設ける」と決めて書き始めるとかいったことだ。

 

つまり、内容の前にその内容を詰め込む器を先に決めてしまって、そこに見合う料理や盛り付けを考えていくという方法である。

 

意外と先にこうした条件や制約を設ける事で、自分でも思いもよらなかった内容が現れてきたり、頭のどここかに未整理のまま散らかっていた素材を引っ張り出してきたり、別な素材と掛け合わせたりできたりする。

 

 

 

 

事の発端は真似事から

 

そもそも「曲を書いて歌う」という事自体が誰かの真似であるわけだが、曲作りを始めた頃というのは「誰々のあの曲みたいなのを」っていうところから始まっているのである。

そんな事をやり始めながら、いろんな音楽を知っていって、最も初期の頃に知ったのが「ビートルズに影響を与えた50年代のブルースやロックンロールは大概3つのコードだけで、だいたい同じ構成である」という事だった。

Eコードが基調であれば「E-E-E-E-A-A-E-E-B7-A-E-B7」、Aなら「A-A-A-A-D-D-A-A-E7-D-A-E7」といった具合(のちにソウルミュージックで頻繁に使われる3コードの進行の構成もいくつか知る)。「コレに合わせて自分の作った歌詞を歌えばいいんだ」ということに気づいた。

そう思うと簡単そうな気がしたし、実際に最初の頃はこの構成でいくつも曲を書いたが、残念ながら今記憶しているものはほとんどない。歌詞がリズムにハマってないとか、不自然だとか、語感がマッチしていないと、途端に駄作になるし、そうすると覚えておく事も出来ないし、残された歌詞だけ見ても歌う気にさえならない。

そして、自分にとってはいまだにそれでいい曲を書くのが一番難しい。何事もシンプルであることが最も困難なのかもしれない。

 

とにかく、そもそもの曲の書き始めは、今回のテーマである「器」を決めてから中身を作っていくという作業だったのだ。

 

そしてもう一つ、この方法がインプットされたのは、オフコースのレコーディングドキュメントがテレビで放送されたのを観たからだと思う。

彼らのレコーディングを見ていると、最初に「作曲者」がコード進行のみを提示して、そこでアレンジを作っていく。要するに歌詞もメロデイーもないままに、先にカラオケを作っていたのだ。

そしてカラオケのレコーディングが終了した時点で歌詞とメロディを作って歌の録音をしていた。

 

歌詞とメロディーによる「歌」が最初に作られて、そこにアレンジをしていくものだと決めつけていた自分にとっては非常に驚きの光景であった。

 

この事があって、歌本で好きな曲を見つけて、それをギターで弾きながらとか、誰かのレコードに合わせてそれに合う別なメロディーと歌詞をつけていくというような事もやっていた。

 

こうした作業をやったり、単純にオリジナルの曲の各アーティストごとの「こんな感じ(中にはコードの使い方や、メロディーの傾向、そこにどのように歌詞の言葉が使われているかなどが含まれる)」という特色を知っていく事で、「誰々のあの曲みたいな雰囲気のものを作ろう」とかという初期の目標に向かって、より具体的にノウハウを身につけていくことになった。

 

この先が応用編というかで、高校生の後半になると、「誰々のアノ曲とこの曲を合わせたような曲を」とか「今流行っているニューミュージックのこんなタイプの」とか「自分なら、このドラマの主題歌にこんな感じの曲を」などと考えるようになったり、挙げ句の果てには、「一層の事、ドラマや映画のストーリーも自分で想定して、その挿入歌のつもりで書いてみよう」とか「甲斐よしひろが矢沢永吉に曲を提供するとしたら?」といった訳のわからない想定で書いてみたりというように、器自体もオリジナリティとかいうものに近づいていくようになる。

 

 

借り物からはみ出た部分に宿るもの

 

このような曲作りの経験を積んでいくうちに、ごく自然に自分の中からメロディーや言葉が浮かぶようになってくるのだが、そうなってくるとさらなる応用編が生まれ、自分の中から湧いてきたものをうまく整理して曲の体をなすために、ひらめきのすぐ後に器を用意して中身を器に合うように盛り付けていくとか、自分なりに器を再構成して、器自体が自分の独自のパターンになっていったものもある。

また、例えばソウルミュージックの「C-Am-F」の構成で書いているのに、出来上がってみるとどうにも自分の想定していたソウルミュージックになっていないなとか、基本のフォーマットに添いたいんだけど、どうしてもこの部分だけ変えないことには自分の出したいものにならないという事が発生していく。

 

この真似事通りに収まらないで「どうしてもこうなってしまう」という部分こそが、または器の盛り付け方に現れるものこそが「オリジナリティ」というものなんだろうということに気がついてからは、ことさら「自分らしく」という意識は持たないようになった。このあたりは今回の話から若干逸脱するので、また機会があれば。

 

これは曲構成とかコード進行などだけではなく、歌詞においてもそうである。

顕著な例としては、たまにステージでもエピソードとして紹介するが『ワルツ』という曲がそれに当たる。

ある人がエッセイに「日本語は3連になる言葉が一番歌のメロディーに美しく機能する」といった趣旨のことを書いていたと知って、「では3文字ずつの音節の言葉(ながい/かみを/ほどき 等)だけで歌詞を書いてみようか」という事と、そこから「言葉が3なので3拍子にしよう」「3拍子の曲だから、タイトルは『ワルツ』にしよう。あ、「ワルツ」も3連の言葉だな」ということだけ考えて、曲を書き始めた。歌詞の内容やテーマなどに関しては何も想定していないのである。

 

書き始めるといっても、自分の場合、机に向かってとか、楽器を手にして書き始めるということはほとんどなくて、散歩しながらとか部屋でぼーっとしながら大体のイメージを掴み、ほぼ8割くらい出来上がったところでギターを持って、歌いながら言葉とメロディーを整えていくという作業なのだが、その時点で具体的な内容ではなく「どんな内面の感触を表したいのか」は決まっているので、もちろん『ワルツ』の場合も、その感触は持ちながらではあるのだが、自分でも意外な言葉が出てきて驚いた。そして、それこそが自分が考えても出てこない自分の中にあるものだと感じる事が出来た。

 

歌詞にしろメロディーにしろ、コレが「先に器を決める」ことの効果であるし、自分で認識できない自分のオリジナリティを表出させる方法の一つだと思う。

 

 

多岐にわたる器の使い方

 

今では、この器を決めてから曲を書くという作業も、他の方法と混在し、ほとんど無意識にある程度曲のコンセプトがまとまってから器を決めてみたり、途中で別の器に変えてみたり、表したい気分と器を同時に発想したりするので、なかなか境界線を設けるのは難しいし、一曲の中に器がポイントだったり、内容の技術的なアイディアだったり勢い任せにしている部分が混在しているものもある。

というか、大抵の曲を書く人というのは無意識にこうした作業をしているもんだと思っているのだがどうだろう?

以前にも書いたが、言語化するといろんな要素を分割して説明することになるし、ややこしいことをやっているように思われがちだが、当人にとっては単純極まりない「曲作り」に熱中しているということでしかないのは、ご理解いただきたい。

 

例えば、プロ野球の名打者が自分のバッティングに関して事細かに分析したりしてるのを動画などで見るのが好きなんだが、いざ本番で球を打つ瞬間というのは打席に立って球を打っているだけというか、ある程度反射神経で体を動かしている筈で、自分も「曲作り」という本番の最中に、バッティングで言うところの、グリップの使い方とか、ここで腰をこう回してなんていう分析的な意識は持ち合わせていない。今書いているような事は、曲を考えてる最中ではなく、曲を書くことについて考えている時に客観的に分析していることである。

多分、こう言うのを書こうと思ったのは、落合博満のバッティング談義を観たせいだと思う。

 

話が逸れた。

 

ここ10年くらいの器の使い方はというと、「器から作る」という発想を意識した場合は、先ほど書いた「オリジナリティ」というか「自分ならでは」のものを持てているという自負も持てるようになったので、そこを生かした応用をしている。

例えば、だれかのツイートで「最近のヒット曲はこの言葉がしょっちゅう使われる」といった書き込みがされているのを見つけて「じゃあ、自分もその使い古しの言葉使って、いかに自分らしい曲になるかやってみよう」といったような。

 

あるいは若い頃のように「誰々みたいな曲を」という発想を逆手にとって「サザンみたいな曲で、サザンの事を歌おう」とか、以前自分が「誰々みたいな曲を」と思って書いた曲みたいな曲を今描くとどうなるかな? といったかなりひねくれた使い方をしている。

 

何れにしても、この器というのは曲を書き始めた時から自分にとっては大事な発想で、これがあったから曲の作り方も理解してきたし、そこから自分だけの味みたいなものも出す事が出来るようになったし、意識や思考の範疇だけでは出てこない表現したいものを表現することができるようになった。

 

 

伝統的な器を使って自分にしか書けないものを

 

真似事から始まった曲作りで、最終的にやりたい事というのは、きっとこれなんだろうなという気がしている。「伝統的な器を使って、出来上がったものは辻ならではの曲だねと言われるような曲を作る」ということである。

 

この姿のモデルはヴァン・モリソンだ。オーソドックスなブルース、ジャズ、カントリー、ソウルなどの形態をとりながら、つまりその伝統的な様々な器を使いながら、彼のそうした曲を聴いて強く感じるのはヴァン・モリソンというアーティストの個性というか存在なのである。

おそらく、自分がやりたいのはそういう事だ。

 

古くさいわけでもなく、斬新さでアピールするわけでもなく、ありふれた曲なのに自分の刻印が押してあるような曲の作り手、歌い手になりたいのだろうなと。

 

だからいまだに、3コードのロックンロールやソウル系の器を使っては様々な曲を書く。最初の方で書いたように、これが一番難しい。

 

チャック・ベリー、リトル・リチャード、バディ・ホリーなど、ロックンロール誕生時の彼らはなぜ同じ器を使いながらあれだけオリジナリティがあったのだろうかと考えているが、納得できる答えがないままだ。

 

いつか、C-Am-F またはC-Dm7-Fの3つのコードをただ繰り返すだけで作られた、それでいて個性を感じる名曲とよばれる作品を作る事が自分の曲作りの最終地点なのではないかなと、最近はそんなふうに思っている。