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別冊

ぼんのう

〜 第八回 〜​
この言葉を歌いたい

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「パンチライン」の効能

 

歌詞の中での、ひときわ人を惹きつけるワードを「パンチライン」あるいは「キラーワード」と言う。昔からこれを意識して歌詞を書いている人は多いだろうが、それが「パンチライン」という呼ばれ方をするものであるという認識が広まったのは(それでも一部だとは思うけれど)、ラップが浸透してきてからだったと記憶している。彼らが通常の歌詞よりもこの「パンチライン」をことさら重要なものとして位置付けているのは想像に難くないので、楽曲制作の事を語る時などに口にすることも多いからだろう。

 

わかりやすい例を挙げれば、ダウンタウンブギウギバンドのヒット曲『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』で歌われる「アンタあの子のなんなのさ」がソレだ。 その前の部分で何を歌っているのか分からなくても、覚えてなくても、「アンタあの子のなんなのさ」が妙に印象に残る。発表当時はほとんど「流行語」のような扱いだった記憶がある。

 

歌謡曲、演歌では意図的にしろ偶然にしろ、このパンチラインがいろんなヒット曲に挿入されている。まぁその曲の「キメゼリフ」みたいなものかな。『襟裳岬』の「襟裳の春は何もない春です」とか、『雨の慕情』の「雨、雨、降れ降れ、もっと降れ」とかね。曲の全体は知らなくても、そこだけは歌えるとか、そこが耳に引っかかって曲をじっくり聴いてみようみたいなインパクトを残したりする。乱暴に言ってしまえば、志村けんの替え歌での「カラスの勝手でしょ~」と同じような効果がある。

 

まぁ大体はサビかコーラスの終わりに持ってくることがほとんではあるけれど、ここにハッとさせられるような言葉を持ってきて曲を展開させるのがうまいのが、先述の『港のヨーコ~』の作詞家である阿木耀子だろう。『プレイバックパート2』での「バカにしないでよ」というのも彼女の手によるものだ。そして、まだ作詞家になって日が浅い売野雅勇が中森明菜を担当することになった時に、おそらく参考にしたのはこの『プレイバックパート2』のやり方だったんだろうと思う。『1/2の神話』のキメでの「いいかげんにして」って言うのがその典型。

 

こういう例は出していけばキリがないのだが、この『パンチライン』というのは、その曲を印象付けるインパクトを与えるだけでなく、それによって楽曲自体に他の曲とは異なる個性を与えることにもなるし、使い方によっては歌い手のキャラクター付けにも影響を与えるものである。

 

僕の個人的なこの『パンチライン』の最高峰は、佐野元春の『ガラスのジェネレーション』における「つまらない大人にはなりたくない」だ。

曲の最後にシャウト気味に歌われるこの部分に至るまでに、そんなに具体的なことは語られていない。様々な「気分のイメージ」を並べていく中で「見せかけの恋ならいらない」とか「本当の事をしりたいだけ」とかちょっとしたヒントになるようなキーワードが散りばめられ、曲が最高潮に達した時に「つまらない大人にはなりたくない」という言葉がはじき出される。

これだけで、もう10代の高らかな宣言として響く。

それまでのイメージの羅列は全てこの言葉に集約されていき、同時にこの言葉から発生したものであり、何がどうだからつまらない大人になりたくないのかなんて説明は一切なく、全てを理解させる(その理解は100人いればおそらく100通りの、それぞれの状況に合わせた理解だ)力を持っている。この全てを凝縮した、たった一行をシャウトするための歌だ。聴いていても歌っていてもここにきた瞬間にカタルシスを感じる。

ここには「アンタ、あの子のなんなのさ」とはまた少し違う働きを持った『パンチライン』の効能がある。

 

コピーライターの時代に育って

 

すっかり前置きが長くなってしまった。

まだ全然本題じゃない(笑)。

 

今回は自分が「この言葉を使って曲を書こう」というようなトライをしてきたことについて書くつもりでいるのだけれど、その一つの要素として、これまで書いてきた『パンチライン』というものが活かされた音楽を数多く聴いてきた影響があるわけだ。

 

そして、もうひとつ。今振り返ると結構大きな影響だったなと思うのが「コピーライター」の存在だ。当時はそんな気もしていなかったんだが、いわゆるCMの中で使われるキャッチコピーである。

考えてみれば、それはそのままCMの中の『パンチライン』ということになるかもしれない。

 

僕が曲作りの真似事を始めた頃、ちょうど80年代というのは、ある意味「コピーライターの時代」でもあった。高度成長期を終え、モノが溢れ始めた時期。テレビのCMでは商品の性能や特徴など「商品そのもの」をアピールするのではなく、そこになにがしかのイメージを付随させて商品とリンクさせるような手法が多くなっていった時期だ。

要するに、商品自体には他社のものとそんなに差異はなくなったのだろう。意味があろうとなかろうと、そこに何かのイメージを付け足すことで他社製品との差別化を図る時代になったのだ。

そんな時に脚光を浴びたのがコピーライターと呼ばれる職種の人たちである。自分の記憶ではこのコピーライターという名称も、この頃に周知されたと思う。

 

例を挙げると、殺虫スプレーのCMで「亭主元気で留守がいい」という奴。殺虫剤の性能は何一つ紹介していない。ただそのコミカルなCMが話題となり、印象に残るために殺虫剤が必要な時にその商品を買うという塩梅だ。

あとは西武百貨店の「おいしい生活」っていうのも、具体的には何の紹介にもなっていないけど、何となくその言葉のイメージがそのまま百貨店のイメージにリンクしたんだろう。

 

中には、商品の紹介という事を超えて、世の中に対するというか社会で暮らす人たちへのメッセージになっているコピーもあった。雨の降る中、子犬が人混みの中を歩き回る姿を俯瞰で捉えた映像のラストに「元気で、とりあえず元気で、みんな元気で」という言葉が流れるCMは詩的ですらあった。

 

これらのCMを手がけていたのは、それぞれ、石井達矢を中心とした大阪電通のチーム、糸井重里、仲畑貴志である。彼らが中心となってCMはナンセンスなものからメッセージ性のあるものまで非常にバラエティ豊かなものとなり、それぞれのコピーライターの個性が決め手となる作り方になっていった。

 

ここで当時のコピーライターに関しての諸々を述べていくと話があらぬ方向に進んでしまうので省略するが、当時僕は、商業主義的なものに反抗的な気分を持っていたクセにこれらのコピーを非常に興味深く眺めていた。「どんな人がどういう考えでこの言葉をひねり出したんだろう?」というような。

 

そして(ここからようやく本題)、自分が曲を作るに際しても、このCMで見聞きするコピーの言葉から参考になるものはないかという気持ちが働いていた。

 

なんというか、幼い頃から聴いていた歌謡曲などの『パンチライン』が下地にあって、「印象に残る言葉を」とか「うまい言い回しを」というのが曲作りでは大事なことの一つという刷り込みがなされており、そこで自分が曲を作り始めた時に、漫画やドラマや映画のセリフ、小説に書かれていた言葉などをヒントに(ときにはそっくりそのまま借用したり)している中で、CMのコピーの作り方というのは「端的に様々な要素を凝縮し、イメージを喚起させる言葉の使い方」としての興味がわくものだった。

 

だから、このコピーライターの時代に自分が曲を作り始めたというのは、自分の曲の特徴としてはおそらく大きなことだったんだろうなと思う。

 

よく自分の曲に関して「耳に残りやすい」とか「キャッチーだ」とか言ってもらえたりするのは、きっとそういう作り方だからだろうなという気もする。

 

なにか「この部分でこのひとこと」というものを想定しておいて、その前後を組み立てていくという作り方をしていることが多い気がする。

 

自分で一番手応えを感じた例は『ウキウキライフ』である。もうあの曲は「魂は遊ぶ」という一言だけのためにあるようなもので、その前段階というのはそこにいたる気分のイメージ付けである。そして「魂は遊ぶ」っていう言葉の意味自体を一切説明しないで「でも伝わるでしょ?」ってところに持って行ってるのである。自分の経験したことやそれを踏まえての人生観というか生命観の中から出てきた言葉だし。

 

実はあの一言にはクドクド解説しないと理解されない、あるいは誤解を招くかもしれない恐れもあるのだけど、そこは曲調や前後のイメージの羅列に委ねてしまって、説明したい事を要約、凝縮すると「魂は遊ぶ」になるんですよってことなので、それで成立させられたことが嬉しい曲だ。

 

その言葉がメロディー付きで浮かんだら

 

まぁ、曲を書き始めた最初の頃というのは、そんなに歌にしたい素材も経験もない頃だったし、形を追っていたわけで、自分の曲がどうにか世間で流れている曲と同じようなものにできないかと思いながやっていたので、なにか気の利いた言い回しになるような言葉を所定の場所に置くと、それっぽくできるんじゃないかっていう発想だったと思うのね、多分。

 

だから、それこそ形としては機能しているが、効果も弱いし、何より印象に残りづらい。それが当時の精一杯だったし、これが練習だったとすれば懲りずにトライし続けたおかげで、後にその言葉に何かを凝縮させて展開するということもできるようになってきたんだろう。

 

最初は曲を考えながらということが多かった。次第に曲を構想する時に無意識的に着想から着手までの間にこうした工程が生じるようになった。

 

①こんな感じの気持ちの内容を、こんな感じの曲調で歌いたい

              ⬇︎

②漠然とした全体像の中から、肝となるような言葉とメロディーは何か探る

              ⬇︎

③見つけ出したらそれが曲のどの部分なのか見当をつける(曲の終わりか、サビかAメロの一部なのかなど)

              ⬇︎ 

④そこに至るまでの部分、あるいはそこから続く部分を考えながら前後に曲を広げていく

              ⬇︎

⑤大体イメージが固まったところで、実際に楽器とペンを持ち、具体的に作り始める。

 

意識してこの手順を踏んでいるわけではないが、だいたいそんなところだろう。

そして、①~③まではほぼ瞬時に行なっている。ここで何も出てこなければ、①の状態のまま長らく保留となり、ある時にふとひらめきがやってくるまで待つことになる。

 

③まできたら、あとはそれが何日間なのか何週間なのか何ヶ月かなのかはそれぞれだが、④の状態で散歩したり風呂に入ったりといったところか。

 

たまに①~⑤までが数分で済む場合もあるが、その辺は自分でコントロールできることではない。

 

まぁ全ての曲に『パンチライン』と言えるほどのものが必要な訳ではないのだが、その曲の中で肝にしたい一節というのはある。そこから作り始めて途中で思いついた別なラインがその代わりになることもあるけれど。

 

こうやって曲作りの作業を重ねていくと、今度は①と②の順番が逆になったような思いつき方をする曲も出てくる。

つまり「この一節を使いたい」というところから曲を考え始めるのである。それがパンチラインとは限らないけど。

 

 

言葉に導かれる曲の質感

 

先述した『ウキウキライフ』の中の「魂は遊ぶ」という一節は、実はあの曲になる前に何度か別な曲の中に入れ込んでいた言葉である。

2曲か3曲はこの「魂は遊ぶ」を使って曲を書いたし、ライブで歌ったこともある。

しかし、最終的にボツにした。

 

どうも「魂は遊ぶ」という言葉で表現したいものをちゃんと捉えきれていない曲調だったり、あるいは自分にとっての「魂は遊ぶ」というのがどういうことなのかを解説しているような歌詞になってしまい、つまりは気持ちと思考のバランスが悪いというか、気分をそのまま表現したようなあの言葉を思考で固めてしまって、全然「遊んでない」曲になったりなど、どうにも曲の質感が言葉にうまくはまっていなかったのだ。

 

「魂は遊ぶ」の部分は、リズムやキーが違ったり、コードがメジャーだったりマイナーだったりとそれぞれだが、メロディーは今の姿と変わらない。ただ出来上がってみると「なんかこうじゃないな」っていう仕上がりになってしまうというのが続いていた。

 

続くというか、一度ボツにしたらしばらくはそのことに関してはまた自然に頭に過ぎるまでは放置しておくのだが、そうしてある日なにか別の曲想が浮かんだ時に「あ、ここで使えるかも」と思ってやってみて、また放置というような事を繰り返す。

 

だから、「魂は遊ぶ」という一節を思いついた時から『ウキウキライフ』という形になるまで4年くらいかかっている。せっかく能天気な歌に仕上げたのであまり難しい話のようにも思われたくないのだが、元々は「魂は遊ぶ」とは無関係な曲があって、それもボツにしたのだけれど、その曲を下敷きに、文化人類学とか宗教関係の本を読んで思い浮かべたことや、自分の経験から得た知見を混ぜ合わせて愉快な曲を構想してた時(最終的に、その中での知識的な情報は歌いたい内容にとってはどうでもいいことなので、表には現れていない)に、この「魂は遊ぶ」というフレーズがピタっとはまったのだ。「あ、これがこの言葉で描きたかったことだ」っていうのにピンと来て、そこで作り始めたら1時間もかけずに出来上がった。

なので、この曲は書き上げるまでに4年かかったとも、勢いでできたとも言える。

 

そして、そうしたこの曲に至るまでのいろんな要素が「魂は遊ぶ」という一言に集約されている(しかも単純に楽しい)というところが、自分では気に入っている。

 

似たような例としては『月光の往来』という言葉で、これはメロディーも異なるパターンで作りかけで頓挫したものも含めれば10曲くらい書いており、バラードからロックンロールまで多岐に及んでいるし、人前で披露した曲も2曲ほどあるが、最終的にしっくりきたのが2018年版で、以降よく歌っているやつだ。最初に言葉が浮かんだ時から10年以上経過している。

 

もうひとつだけ別の曲の例を紹介する。

『とりもなおさず』という曲。

 

これはもう単純に「とりもなおさず」という言葉にまず惹かれたのだ。最近こういう言葉ってあまり使われなくなったなと思ったのがきっかけだ。

なんというか、日本人独特の情緒のある言葉だなと。そのものズバリではなく輪郭をなぞって語感で雰囲気や気持ちを含めた意味合いを表現するような方法だなと思ったのだ。

夏目漱石が「I Love You」を訳す際に「日本人は”愛してる”なんて言わない、”月が綺麗ですね”とでもしておけ」と言ったというエピソードが好きで、なんだかそういう情緒感に近いものを感じて、「とりもなおさず」を使って歌にしようと思い立った。

 

その辺りで既に「とりもなおさず あのひとのこと」という歌詞とメロディーはひょこっと出てきたので、これをコーラスの最後にして、2コーラス目と繰り返しの後には同じ部分で別な言葉で同じように最近あまり聞かれなくなった情緒があり、既に決まったメロにはまる響きの言葉をというのと、ちょっとした言葉遊びで文字の抜き差しで意味を変える言葉を付け加えようという発想で言葉を探して当てはめた。順に並べると

 

とりもなおさず あのひとのこと

かえすがえすも あのひのこと

いわずもがな  あのひとこと

 

となる。

ここができたら曲の流れは歌詞の展開の仕方も含めほぼイメージが固まる。

自分としては情緒感のある曲になったと思うし、なんとなく煮え切らない(人混みを離れたり戻ってきてみたり、どこで間違えたのか最初から間違いだったかと思い巡らせたり)心情を書いたものになったし、メロディーも自然と「和風」になった。

 

 

 

ここでも応用編

 

こうやって「一節から生まれる曲」とか「パンチラインを考える」とかいうのも色々と曲を書いているうちに応用編みたいな発想で書くことがある。わかりやすいのはパンチラインをあえてサビやコーラスの締めには持ってこないで、さりげなく入れてみるという方法。

もうひとつ極端な例だと、こういう作り方が普通になっているので、曲を最初に発想した時に「パンチラインは考えないで作ろう」というテーマを掲げてみるものもある。まぁそれで自分の情動や個性が反映された言葉が出てくれば、それはそれで良い。

 

あとは、「歌詞の全部がパンチラインとなりうるようなものができるか?」というつもりで臨んだ曲もある。全部が素通りできない言葉というのかな? 一行一行がCMのコピーのような印象にのこる言葉で、全体的な繋がりも持っているよなもの。

 

まぁ、ただ曲を作る目的はそんな技術の発表ではないので、そうしたトライの結果が上手くいったかどうかはそんなに問題ではない。要はそうした過程で、前回にも書いたように、なんとか表したい自分の情動とかが受け取ってもらいやすい形で出てくれば良いのです。

 

さっき例に挙げた「言葉はあるけどしっくりこなくてボツにした曲」っていうのは、結局技術的に上手くいった行かないじゃなくて、そっちに気を取られてというか、そこが主題になっちゃって、肝心なことが抜け落ちてしまってるから、結局歌えなくなるってことなんだろうなと思うのです。

 

その肝心なところを表現するためのバリエーションを豊かにしとくための技術であり、アプローチなんでね。方法論が目的にならないようにというのが気をつけたいところだ。

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