別冊

ぼんのう

〜 第七回 〜​
夢の料理人

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「思いつく」というのは直感なのか思考なのか?

 

マンスリーのライブ企画【月間ぼんのう】と、それに付随して、自分の曲作りに関して書き記してきたこの【別冊ぼんのう】共に先月で全12回中の6回を終了した。これで半分を消化したことになる。

 

折り返しとなる今回は、ライブでは特にテーマを持たずに選曲し歌う予定であることに合わせて、この【別冊】の方では、「いろいろなアプローチをした結果、今現在の自分の曲の作り方はどうなっているだろう?」というところを考えてみようと思う。

以前に一度、ライブに来てくれた方の質問に答えてブログで書いた事をもう一度おさらいするような形になると思う。

 

これまでの【別冊ぼんのう】では、曲のテーマに基づいてどんなことを試してきたかや、歌詞とメロディやリズムの関連について考えたり試したことなどを書いてきたが、その都度、「今は色んな要素が混在しているし、毎回そんなに意識してやっているわけではない」という一言も添えてきた。

 

その通りではあるのだが、もっと簡単に言ってしまえば「やり方なんて曲によっても違う」ということだ。

ある時は、何かにインスピレーションを得て曲を書き始めてみて、リズムの感覚や言い回しなどに気を使っていくこともあれば、以前に書いた「手法上のテーマを設けて(歌詞の音節を3文字ずつにする等)」作ってみたり、特定の物事に対しての自分の意見や考え方を反映させることがベースとなる場合もある。

そして、どのきっかけで書き始めようとも、色んな要素が絡み合うことになる。

「こういう手法で書いてみよう」というところから始まってみても、完成した作品の中には自分の抽象的な『情動』のようなものが反映されているし、なんらかの心の震えを形にしたくて曲を書いていて、その過程で特定の形に収める手法として韻を踏むということを考える場合もある。

 

そしてこうした作業は曲を書いている間は実のところ、ほぼ無意識に行なっているような気がする。総じて言えるのは、曲を書き始める時というのは、それが技術的なアイディアからであろうと、『情動』や『思想』からであろうと、ふと「思いつく」というところから始まるということだ。

 

瞬時にある発想が浮かぶことを「思いつき」というのだろうが、僕は自分でこの「思いつき」の源泉がよくわからない。

それは、日々いろいろな物事を見聞きしながら考えている自分の「思考」の積み重ねから出てくるものなのか、あるいは、何がしかの物事を見聞きした時に、経験や自分の感受性を通して、思考を介さずにひらめいているものなのかの判断ができないのである。

あるいは、両方のことが同時に起きているのかもしれないし、もしかしたら「直感」というものを角度を変えて説明しているだけで、本当は結局どちらも「それが直感だ」という結論になるということなのかもしれない。

 

その正体は今だにわかってはいないのだが、何れにしてもこの「思いつき」というものの中には、絶対に言語化もしくは数値化して表す事ができない領域があるという気がする。

これは曲を書くということだけではなく、自分がこれまで生活してきた中でも折に触れて感じることである。

 

おそらく(まったくもって「おそらく」なのだが)、自分はこの言語化、数値化できない「思いつき」の何かを形にしてみたいのじゃないかと思う。

ある人はそのために絵を描くかもしれないし、ある人は彫刻を、別な人は言葉によって言葉の制約を越えようとする「詩」という形にしようとしているかもしれないし、またある人は、量子力学の最終理論の探求をしているだろうし、宗教を学ぶ人だっているだろう。踊りを踊ったり、物語を描いてみたり、やり方は千差万別だ。

なにしろそれはもともと決まった形を持っていないのだから。

 

そしてある人は、メロディーやリズムに言葉を絡めて、それを自らの体を介して演奏し、声を出して歌う。

 

あくまでも今振り返るとだけど、ビートルズの曲を聴いて「これだ」と思った子供の頃の自分は、つまりはその実態はないのに自分の中に確かに存在すると感じるものを、他者と共有できるものとして表したかったのではないかなと、そんな事を「思いついた」のではないかなと考えることもある。まったく自覚してないけどね。当時の自分に聞いたら、ただシンプルに「かっこよくて楽しそうだから」って答えるだろうな。

 

 

とりあえず、20代の前半くらいまでは、『ラブソング』はラブソングだったし、戦争に反対だと思えば「戦争反対」の歌を書いて歌っていた。

それらをどうやったらラジオやレコードで聴いている人たちのように自分も含めた多くの人が喜んだり感動したり、一緒に歌ったりしたくなるような作品にできるのかと思い、いろいろな人の作り方を自分なりに分析したり、真似をしてみたりしていた。

 

好きになった女の子のことを書く、新聞やニュースで話題になったことに何か意見を言う、映画に出てきたセリフを拝借して歌う、子供なりに世の中に対して思うこと、自分の漠然とした不安。もう少し時が過ぎてからは、主体的に街中を動き回り、多少は世間の風を感じながら、それらをモチーフに夢想と理想を…。それらをどうにか「それっぽく」見せるために色々考えていたんだろう。

 

無意識を意識する

 

もちろん、その時々で、その時なりに「自分自身のことを表現する」みたいなことを考えているつもりではあったのだが、それは非常にステレオタイプな「自分自身の表現」であって、要するに多くの憧れの作り手たちが表現しているものの形をなぞっているに過ぎなかったと思う。

その曲が産まれるまでに、作家の思考や意識、無意識の中でどんな活動があるのか知らなかった。もしかしたら、単に年齢的な問題かもしれないけれど。

 

それが自分の中で自然と大きく変わったのは、おそらく1990年になってから。

一度音楽をやめようと思い、結局やめることができずに再び曲を書くにあたって、まずは「世の流行を追うのではなくて、とにかく自分自身が本当に好きになれるような曲を書かけるように」ということを決めて、毎月10曲ずつ書き上げる作業を1年間続けた中から、現在に至る曲の書き方になっていったと思う。

 

その辺りから、ニュースで見たこと、付き合ってる女の子のこと、友人や自分の生活のことなどで、自分の気持ちに震えがある時に、その出来事ではなく、「情動」そのものに注目するようになった。

 

このように、ごちゃごちゃと自分のやっていること(世の中に対しても)を分析して解釈したり、その10年後辺りから熱を入れて関心を寄せるようになる(といってもシロウトのつまみ食いだが)脳科学や宗教や量子論などへの興味も確かこの頃に湧き始めている。

なんというか、「自分の心の動きを観察する」というようなクセがつき始めたのだ。それを自分で認識してやり始めたのはそれからさらに10年くらい必要としたけれど、その『無意識の自分を知ろう』という作業に近い事を90年代始め頃から試し始めたんだと思う。

 

僕はよく人から「理路整然としてる(わるく言うと理屈っぽい」)とか言われることが多いが、自分では元々は多分に情緒的と言うか直感的な人間だと思う。ただ、20代の後半くらいから徐々に、その自分が翻弄されてしまう「情緒の動き」の中で何が起きているのかを自分で理解したいということなんだろう。

今だに理解できないが、おかげで幾分、情緒は安定した(笑)

 

 

 

現在に至る作曲手順

 

この辺りから、曲の作り方も変わってくる。

最終的には、それが技術的なアイディアであれ、何かのインスピレーションや情動からの思いつきであれ、それを散歩しながらとか風呂でぼーっとしながらなんとなくの形を作り上げ、ある程度大まかなイメージとかぼんやりとでも要素要所のメロディや言葉のフレーズが出てきたところで、ギターを手にして紙とペン(あるいはパソコン)を前に、歌いながら言葉とメロディをまとめていくという作業が一番しっくりくる。

だから、よくある「歌詞と曲はどっちが先か?」と質問されても「両方一緒」という答えになる。

ここで、何度も歌い直したり、言葉を書き直しながら仕上げていくわけだが、リズムに合わない言葉とか使いたいメロディにうまく乗らない言葉を直しながら、そしてどうしても使いたい言葉があれば、それにハマるメロディを探しながら、あるいは歌っている自分の生理的な快楽というか、そこで伝えたい情動にハマるとか、言葉がうまく乗らない部分がうまく乗るような歌い回しを探りながら仕上げていくので、出来上がった時にはほとんど歌詞もコードも確かめずに歌える状態になっているというメリットもある。

と、いうか、ここで妥協したり無理して完成に持っていっても、大部分を書き記した歌詞を見ないと歌えなかったり、メロディが出てこない曲は、結局お蔵入りになる。

 

曲をボツにするかどうかは、この「仕上げとして具体的に曲をまとめる作業中に頓挫する時」と「できはしたけど、しっくりこない時」の二段階があるのだが、もう一つ、それらをクリアしても今後も歌うかどうかの最終選考がある。

それは、実際にライブで歌った時の手応えである。

 

お客さんに受けたかどうかというのとは違う。これはうまく言えないが、ライブで人前で歌って自分の中で手応えのようなものがない曲というのがあるのだ。たとえ大きな拍手やなんかがあったとしても、実際に人前で歌ってみるとなんだかしっくりこないという曲がある。これはその後歌わなくなる(その後、数年経ってなんとなく歌ってみて、いきなり手応えを感じる場合もあるが)。これがどうしてなのかはわからない。

 

自分の情動を観察しながら、同時に体を使って歌い、それを受け止める周囲に晒してみるという段階を経て、残す曲かどうかを判断しているというところだ。

 

 

 

なぜ人前で自分の曲を歌いたかったんだっけ?

 

さて、では実際の曲の中身はどのようになっていったか。

正直いって、表面上は変わっていないだろう(笑)

と、いうのも先述した通り、自分自身も聴いていたアーティストが曲を作るのに、こうした事をやっているとは思っていなかったのだから、それと同じだ。

表面上は「ラブソング」はラブソングだし、最近のようにCOVID-19の事を歌えば、それがテーマだと捉えられるのが普通である(実際、曲によってはそう聴こえるようにと企んでいる部分もある)。

でもきっと、一旦表面上の事実や事象は置いておいて、自分の情動を見つめるという書き方をして何が一番変わったかというと、それは「説得力」ということだろうと思う。

もしくは「聴く人の共感を得る」とか、もっと言うと単純に「曲が良かった」と言われることが多くなったし、明らかにいろんな影響を受けているにも関わらず「〇〇みたいな曲」と言われることはなくなった。

 

一番嬉しいのは、例えば『ソファー』という曲を聴いて、ある人は「昔付き合ってた女性を思い出した」と言い、別な人は「自分に言われているような気がした」と言い、また別な人は歌詞の一節を取り上げて「自分もこう言うことがあった」と言われたりした事。

また知り合いの娘さんがライブに来た時に、彼女は思春期の兼ね合いで不眠症気味だったらしいのだが、あとから母親に聞いたところによると『おやすみ、君は自由だ』という曲を気に入って、その日はぐっすり眠ったのだと言う。

『素敵な君の歌』はHide-c.が一時期カバーして自分のライブで歌ってくれていたり、別なバンドと共演した際に「この曲をコラボしたい」と言われたり、Mickは「私が作ったことにしよう」といってくれたり(笑)している。

 

つまり、僕の曲を聴いただれかが「自分の事」として、それぞれの曲を受け止めてくれているということだ。

多分、僕が中学生の頃、自分も曲を作って歌いたいと思うきっかけとなった、ジョン・レノンの『Oh YOKO』という奥さんに向けての歌を聴いて、歌詞もよくわからないのに自分の好きだった女の子を思い浮かべたのと同じようなことが、自分の作った曲で叶えられた。

 

こうなりたかったのだ。多分、最初から。

 

それができたのは、「自分の情動を観察する」という事を始めたからだろうと思う。そこに技術的なスキルや経験が加わって、ようやくこの10年くらいでそうなれたのかなと思う。

 

もちろん、僕は自分の身に起きたことや、見聞きしたこと感じたことから歌を作るし、技術的なアイディアから作る時にもそれを取り入れるのだが、特に自分に起きた出来事や考えた事を発表したいわけではなくて、その時にあった心の震え(それは言葉にできない)を表したくて、そしてそれは出来事が違っていても、同質の情動を持っている誰かの心を震わせることができるからだろうと思って曲を書いているからだ。

 

頼まれてもいないのに、これだけ文章を書いてるのが好きなんだから、事実や思想を発表したいのなら、文章の方が手っ取り早いのである。

 

それを理解されたところで、本当の意味での『共感』ではないと思う。

 

伝えたいのは『情動』(というか、言語化できない心の動き)なので、事実を忠実に書く必要はないし、普段思ってもいない事を歌詞にしてもいい。あるいは、自分の情動を観察することによって、まったく別な事柄(女の子の事と、道端で見かけた空き缶や、遠くの国の戦争と小説で読んだ内容)から同じ質の情動が生まれているのであれば、混ぜ合わせて、さらにフィクションを加えてもいい。更に言えば、歌詞で歌っている内容ではなく、その言葉の音をリズムをつけて歌う事で情動に近いものを表す場合もある。

 

 

夢の中で料理を作る

 

冒頭で書いた、ライブに来てくれた方の質問の答えとして、自分の曲作りは「夢の中で料理を作るようなものだ」という内容の記事を書いたことがある。重複するが、もう一度まとめておこうと思う。

 

これはそもそも「なぜ辻の歌にはラブソングが多いのか?」という質問であった。

この時、自分の曲にラブソングが多いとは思っていなかったので、ちょっと考えたのだ。

 

先ほども書いたように、僕がどうにか伝えたいのは、歌詞やメロディや、その時々の歌い方で生まれる、このような文章では表現できない『心の動き』である。それを表現するために自分の経験も作り事も、嘘も本音も混ぜ合わせたりする。

そして、「ただの歌」として受け止めてもらいやすいように、仕上げる。

 

その過程は「夢を見ている」状態に近い。

夢というのは、その日あった出来事とか、それが妙にねじくれた状態や、現実と昔見た映画が混じり合ってたり、その時期考えていることや、意識の中ではまったく認識していない事、どっからこんな場面を思い浮かべたんだかまったくわからない物などが混在しており、でもそれは自分の中の、もしくは自分が感じている「何か」を表している物だったりする。

夢の解釈もおそらく人それぞれ。

 

自分の歌は、そんな夢のようなものだと思う。

ひとつの「何か」を表すために、先ほども書いたように自分の体験も、考えも妄想も冗談もいろんなところから引っ張り出してくる。

 

そして、僕はそれを所謂「ポップス」と呼ばれるフォーマットのなかで再現したいのだ。そうすれば、訳のわからない物もなんとなくまとまりある形として、そして多くの人が慣れ親しんだ形でまずは受け止めてくれるから。

そのために行う作業が『料理』である。

 

つまり様々な食材や調味料を使って、調理方法を考えたり、何かを参考にしたりしながら、『美味しい食べ物=曲」として、テーブルに出したいのだ。

 

食材は、先ほども書いたように、事実や考えや妄想やなんやかんや。

まず、食材を確認してから調理方法や調理器具を選択する場合もあれば、調理方法や器具を決めてから、それで美味しい料理になるような食材を引っ張り出してくることもある。

 

この場合の調理方法や調理器具というのが、たとえば「レゲエ調で」とか「バラードで」とかいうことになるかな。そこに「員を踏む」とか「リズムに乗せる」などの調味料を選択して味や見てくれを整えていく。

 

こういう例を挙げればキリがなくなるのだが、つまり夢の中で料理を作っているのだ。

大抵は、大まかな、ぼんやりとしたイメージで「辛味の効いたこってりしたスタミナつくような料理」とかいうイメージを持って、冷蔵庫にある食材を確認して、そのイメージに合うフライパンを出してきて、調理しながら時々味見してスパイスを振りかけたりとかしている。

 

そして、普段は散歩しながら通りすがりの市場で食材を買い集めたりしている。

 

 

おそらく、所謂「シンガーソングライター」と名乗って曲を作り活動している人のほとんどが、作業的には同じような事をやっていると思う。

それをこのように文章化できるかどうかとか、自覚しながらやっているかは別として。

 

単に、僕が割と文章を書くのが好きな人間で、そして「自分の心の中はどうなってるんだ?」ってことに興味を持っているからたまたまこのように分析してるだけのことで、コレはソングライターとしての能力にあまり関係ない。

 

とにかく、出来上がった料理は、いろんな食材がとろけたシチューだったり、なにかひとつの食材を主役とした(恋愛とか社会問題とか)だったり、あるいは、スパイスが印象的だったりする場合もある。

そして、同じ料理を食べてくれたそれぞれが、それぞれの感想を持ってくれればいいと思うので、料理人の方から調理方法や食材の使い方などをあまり解説したくはない気持ちもある。

 

我々料理人は、何も知らずに食べた人が「美味しい!」と言ってくれる事を願いながら料理を出していて、その人が「また食べにくるね」って言ってくれるのが嬉しい人種なんです。